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★★ 七社 ★★ | |
| 聞き手 | あのお社は、何ですか。 |
| 吉田 | 古社(ふるしゃ)というんだよ。その次に十五社が出来たというんだよ。権現といってね一番左が「半僧坊大権現」。半僧坊というのは、静岡にある放光寺のわきにあるのが元で、そこからお迎えしたものだね。 昔、放光寺のお寺の改修工事があった時に特に働く人がいてね。その住職が後で「あの者は、職人ではあるけど、お寺のためにこんなに働くのは、半分は僧侶だ。」と云った。それで半僧坊と名付け、お寺の守護神として祭ったとお寺の縁起にあります。 放光寺というのは、浜名湖の奥の奥山にあって、確か黄檗宗だと思うけど、わしはよくは判らないね。縁起には、改修工事が始まると、どこからともなく来て、終わると誰も知らないうちに、どこともなくいなくなったと書いてあったね。 前は、ゲートボール場のあたりにあったのを、こちらにお迎えしたんだよ。 |
★★ あま酒まつり ★★ | |
| 聞き手 | この辺でも「あま酒まつり」はあったのですか。 |
| 吉田 | あま酒まつりは全区的にはなかったけれど、ここは六つ区があってね。ここは「久保」、むこうに行くと「平(たいら)」、それから「南」「橋場(はしば)」「上平(わでひら)」「平出(ひらいで)」と六つあるわけ。ここの久保の「甘酒まつり」は組の年番というのがあって、その年番が主催して11月24日かね。毎年決まってやるんだね。年番は五軒くらいかね。年番の人が三日くらい前から甘酒を作っておいて、24日に年番の家によってね。その時は女の人も子供も年寄もみんな集まってね。男の人は座敷にあがってお酒を飲んで、子供や女衆や年寄はあま酒を飲んだよ。 その時に「くじ」で、この組の代参を決めたんだよ。その代参は上州の妙義山と遠州の秋葉山に行ったんだ。11月から三月くらいまでのうちにお参りしてもらって、当時は主に作神様にお参りしてもらったのでね。苗代をつくる前に代参してもらい、苗代へお札を立てたんだよ。 あま酒まつりは、五軒ずつの組の年番がきまって順送りにまわるんだ。 |
| 聞き手 | じゃ、ドブロク祭りのように神社に集まることはなかったの。 |
| 吉田 | そう、年番の家に集まったんだね。もちろん神様へはお供えしたけどね。 北大塩では六つ組があったから、二人ずつ代参をだして、いつ行きましょうと相談をして、十二人で行くんだよ。代参金といって、組で多少旅費を補助したんだよ。そのかわりにお札とみかんをお土産としたんだね。いいおつきあいだったんだね。 で、戦後甘酒を作る事は無くなった。 |
| 聞き手 | あと、どんな神様がありますか。 |
| 吉田 | いろいろあるね。「はやり病」の神様は、「津島さま」だし、かいこの神様は「こだま(蚕玉)神社」。三軒家にある不動明王は川瀬という人がお金をなくして、神様にお願いしたら出てきたので、ありがたがって祭ったという話が伝わっているよ。この話は江戸時代末だと思うよ。 困った時は一回だけ叶えてくれるという水源の上の御不動様があるし、蚕玉様があるし、塩釜神社もあるし、小池のお稲荷様、柴田のお稲荷もあるし、たくさんあるね。 十五社の方には上原一族のお稲荷様もうすこし行くと矢島のお稲荷様とね。さらに行くと塩沢のお稲荷様とね。それぞれお稲荷様を持っているんだよ。初午のお祭りは、それぞれお稲荷様でお祭りするんだね。 |
★★ 滝の御前 ★★ | |
| 聞き手 | この道の先の方に、お寺みたいな古い建物は何ですか。 |
| 吉田 | あのあばら屋みたいになっているのは、薬師堂といってね。中にあがると木の仏像がたくさんあると思うよ。昔は公民館なんてなくてね。あそこに集まったんだよ。狭いけれどね。それが火事になって燃えちゃってね。仏像だけは運びだして残ったね。その後使わなくなって、畳もあげていますよ。 滝があるわけではないけど、水源の上は「滝の前」というんだね。一説には、昔、諏訪に三御前というのがあって、滝の御前・樽の御前・下諏訪の浮き島神社があって、島の御前と呼んでね。それが三御前というんだよ。 滝の御前は、大清水の水源に祭ってあると古老がいうけど判らないんだよ。滝の御前は、昔の勘定で一日に七万石というけど、その水を使えば七万人が間に合ったといわれているよ。今は、一人一石では間に合わないけどね。きれいな水でね。水温が一年中十三度から十四度でね。夏は冷たくて冬は暖かくてね。元は溜め池のまん中からゴクゴクわいていたよ。北大塩は、全部あそこから水汲んだね。 |
★★ 道祖神 ★★ | |
| 聞き手 | ここいらには、お墓が方々にありますね。 |
| 吉田 | 北大塩は、昔はわりかし大きかったね。お墓は村中にちょこちょこあるね。「まき」がいろいろあってね。吉田まきがここにお墓を作るとか、お寺の裏は大塩のまきね。前島は向こうにあるし、小池があったりね。一時お墓の統合という話もあって、山の手の宝勝寺の裏に区分けをしてわけたんだけど、二・三人きりしか葬った人がいなくてね。元の所がよいということでね。火葬になると場所もとらないしね。 道祖神というのは、子どもが欲しいということで、まあ、年代は判らないけどね。私達の子どもの時は色が塗ってあったんだよ。十二衣なんか着せられてね。とってもきれいな色の着物だったよ。 この辺は、武田氏の関係も深かったようだね。吉田というのも、吉田佐渡之丞という人が遠州というから浜松の方から武田信玄の部下に入って武田氏が滅亡したので百姓になってここに住みついて半農半武士というか、高島城につかえていて家が吉田の巻にあったということだね。 あの八幡坂遺跡のあたりからこっちに増えたということですよ。 辻にある道祖神だね。道祖神というと普通は男女の神様が並んでいるけど、ここのはそれ以上のことをしているというんで全国でもめずらしいということだよ。一度見ておく価値はあるよ橋場(中屋敷)にもめずらしいのがあるよ。 |
★★ 殿様水(とのさまみず)★★ | |
| 吉田 | 市峠(いちとうげ)というのは通称であって、米沢・北大塩・諏訪湖カントリーゴルフ場を経て諏訪湖角間に至る八キロもある大塩峠です。殿様水は峠から二キロあがった地点にある湧水のことである。水量は五十リットル未満で少ないが春夏秋冬水が涸れることがなく沸いている。文政三(1820)年4月14日高島藩八代諏訪忠道公が山浦方面を巡見するので下桑原より登られて大塩峠を越えて、この湧水の近くに今も残る馬繋場(ばんけいば)でご休息をされた。 下の部落の北大塩の村役人より献上の品を受け取られた。献上の品は記録された史料によるとヤマメ15匹、八寸揃いのヤマメというから大きかったのでしょう。その際、村役人がこの湧水でお茶を立てて差し上げたら殿様が大変喜ばれた。 なお喉の渇きがあり生水の所望があり、村人が水を汲んで差し上げた所「カンロ・カンロ、天下の名水なり」と、おおせられたと伝えられている。いらい、この水を殿様水と呼ばれこの峠を通る人は、この水を飲んだと伝えられている。市峠の入り口は、小原の辻に高島道と書いてあるからね。 |
| 聞き手 | 今日は、本当にありがとうございました。また、こんどお伺いして別なお話を伺いたいと思います。 |
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